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屍者の帝国 映画 感想

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屍者の帝国

屍者の帝国を見てきたので、感想を。
面白いor面白くなかったかと聞かれれば「面白かった」の方に分類されるのですが、今回はどちらかというと「怖かった」です。
ちなみに私は原作から読んでます。

解説
メジャーデビューからわずか2年となる2009年に他界した夭折の作家・伊藤計劃が、3作目のオリジナル長編作として準備していたプロットをもとに、「道化師の蝶」で芥川賞を受賞した円城塔が執筆して完成させた小説「屍者の帝国」をアニメーション映画化。19世紀末、かつてヴィクター・フランケンシュタイン博士が生み出した、死体に新たな生命を与えて「屍者」として動かす技術が世界に広まり、いまや屍者は労働力や兵力として世界を支えていた。親友フライデーとの約束のため、自らの手で違法に屍者化を試みたロンドン大学の医学生ジョン・H・ワトソンは、その技術と野心を見込まれ、政府の諜報組織「ウォルシンガム機関」にスカウトされる。そこで極秘任務を与えられたワトソンは、フランケンシュタイン博士が残した、生者のように意思を持ち言葉を話す屍者=ザ・ワンを生み出す技術が記された「ヴィクターの手記」を求めて旅に出る。アニメーション制作を「進撃の巨人」のWIT STUDIOが担当。
映画.comから引用)


原作との最大の相違点はフライデーとの関係。

原作ではただの支給された屍者の一人にすぎなかったフライデーは、今作ではワトソンとの生前からの友人で、共同研究者だった。フライデーはワトソンに「自分が死んだら実験の材料として屍者化してくれ、魂があると思ったら合図する。魂の追及という俺の研究をお前が引きつぐんだ」といって亡くなる。

ワトソンは友人との約束を守るため、魂のありかを追究するため、ヴィクターの手記を求める・・・・・・・


この変更点を映画鑑賞前に知った時点では、私は「より伊藤作品の作風に近づくのでよい改変なのではないか」と思ってました。円城塔が主に執筆した今作品、フライデーとワトソンの友情関係を入れて「魂」という抽象的なものを議論することで、どちらかというと虐殺器官やハーモニーのような伊藤成分が出てくるんじゃないかなぁと。

伊藤作品は、どの作品からも死の香りがします。作者本人が闘病のさなかに執筆活動を行っていたことからも、作品を読むにあたってそのことを意識せざるを得ない。特に今作は円城塔が計劃の絶筆の続きを書いたもの。
原作では、医学部の授業の場面から始まる今作が、実は一番「医療」「死」という観念に近いのかと思います。
「もう一度、君の言葉が聞きたいんだ」とフライデーに語るワトソンの姿は、円城塔をはじめとしたプロジェクト製作者全体の表れだし、死してもなお甦らされたフライデーは伊藤計劃の姿なのだろうなと。
若干二人の関係がBLチックだったのは別にして 笑、作家二人の関係を連想させるこの改変はよかったのかなぁと。


ところが、映画を実際に見て、フライデーが生前追究したかった「魂一般のありか」についてよりも、ワトソンがひたすらに「フライデーその人の」魂を追求したことで、確かに面白さも増したのだろうけど、同時に私にとっては生理的な恐怖も増していました。

私はこの改変による「フライデーの魂」が怖くて怖くてたまらなかったです。
私は、21世紀においてワトソンと同じ立場、職につくであろう人間だからかもしれないけれど。
どうしても「屍者化」が、死者、脳死や植物状態の人間の延命治療の比喩にしか見えませんでした。

墓を掘り起こして不完全ながらも甦らせるという行為。
屍者に意志はあるのか、言語はあるのか。あるとしたらどのようにそれを示すのか。
魂とはいったいどこにあるのか。死んだら魂はどこに行くのか。

全て現代の医療でも通用することだなと。
医療というのは、結局のところほおっておけば墓に行ってしまう患者さんを引き留めて、治療することだし。
脳死や植物状態になった人に、意志があるかは外から判断できないし。
人体という機械が故障したら、どうして人は死んでしまうのか。生前の意思は、魂はどこへ行ってしまったのか。

これらの解決不能な疑問を徹底的に突きつけられ、さらに苦しみながら生きたまま屍者化されるニコライ(原作と違ったので身構えておらず大変なトラウマになりそうです)、喚き暴れては劇薬で鎮められるフライデーの姿を見せられるのは、本当に私は怖かった。
延命治療でボロボロになっていく人のイメージと重って、本当に怖い。
もともと、医療業界における心身二元論とかがすごく苦手な私にとって、このテーマはかなりきつかったです。
解剖実習の時もいつも魂について考えてたけど、底なし沼で怖かった。自分の死については何も怖くないけど、私は人の魂とかかわっていかないといけない立場だから、よく考えないといけない、でもすごく怖いので思考停止。
(でも今後ずっとかかわっていかないといけないんだろうし、もっと考えなさいよと言われたら確かにそうなんですが)


フライデーが単にワトソンに与えられた屍者にすぎなかった原作通りであれば、ワトソンはふつうにヴィクターの手記を求めるのみにとどまり、「生前の魂の行方とその表現方法」を語らずにすみ、ここまで恐ろしくなかったのかもしれないです。さらに、今回は原作であった「X=菌株」というSF要素が大きく削られています。
屍者化は、人間の意志を形成しているもとである菌株の不死化によるものであるというザ・ワンの説。
この説がもっと前面に押されていれば、「人間を」屍者化はしていなかった、意識の源である菌株の屍者化である、というSFで多少目くらましになって(?)、ここまで怖くなかったのかも。
「X」に何を入れるか、菌株か、言語か。みたいな議論がもっとなされていた方が怖くなかったなぁ。


あと、また怖かったのがエンドロール直前。
友人であるフライデーの魂に固執するあまり、多くの人を犠牲にしたワトソン。
それでもやっぱりフライデーが生前のように言葉を話すことはありませんでした。
だからこそ、エンドロール直前のアヘンと音楽により自らを屍者化したワトソンは、「落とし前」をつけて、ニコライやカラマーゾフのようになることを選んだのかと思って戦慄しました。もしかしたら、ワトソンはフライデーと同じ立場になって同じものを見たいと思ったのかも、と。

でも、エンドロールの序盤で「シャーロック・ホームズ」という文字があったのでひどく安心。Mの立場が「探偵をやっている弟がいる」人のようには見えなかったので、映画版は原作のようなラストではないのかと思ったのですが、最終章だけは全く原作通りでした。

ワトソンは自らの中にヴィクターの手記を封印し、同時に今回の旅の記憶も消えてしまった。
私にはワトソンの瞳が屍者のそれのようになっていたように見えたので、ワトソンはザ・ワンのように意識をもつ自立した屍者になったのかな、とも思ったのですが……

ホームズと一緒にロンドンを駆け巡るワトソンの姿を遠くから眺め、微笑むフライデー。
エンドロールで「ワトソン博士、ワトソン博士」と連呼し、「ありがとう」と語るフライデー。原作を読んだときは、フライデーは旅を通して記録したワトソンの言語を「X」に代入したことで魂を得たように思えたのですが、映画版でフライデーが魂を得たきっかけはなんだったのでしょうか。(そもそも最初から魂はあったのだけど、意思表示ができなかったという説もあるけど)

せっかく意志を持ったのに、ワトソンはフライデーのことを忘れて、一人にしてしまいました。
原作でもそこにもの悲しさがあって、これは計劃において行かれてしまった円城の悲しみなのかなと思ったのですが。

今回のフライデーとワトソンは友人関係だった、という要素もそこに加えると、フライデーがさらにかわいそうでかわいそうで仕方ありません。せっかく意志を持てたのに、それを待ち望んでくれていたかつての友人はもう自分のこと忘れてるんだもんね……


このシーンが原作通りじゃなかったら最高に後味悪くて大変だったんですが、なんとか総じて「怖かった」という感想に落ち着きました。
臓器移植とか、解剖とかを考えるときに、今後多大に影響してきそうな映画でした……



Mの立場改変とか、ハダリーさんの美人っぷり、背景の美しさ!  とか語るところはもっとあるけど、今回はこの辺で。
EGOISTの曲、「Door」は相変わらずよかったです!
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